読断片日記

仕事柄、1冊丸ごとより断片をよく読むので、その中で印象に残ったもののメモ代わり。

【読断片】成田龍一『〈歴史〉はいかに語られるか 1930年代「国民の物語」批判』

【断片の要約】

 「戦争」の語りは、「報告」から戦後「体験」となり、共有性が薄れるにつれ「証言」として語られるようになった。「証言」では異なった立場からの、時には「加害者」としての語りも登場した。一方歴史学視点では支配者の対極としての「国民」が一元的に描かれていた。しかし1990年前後、「われわれ」=「国民」の自明性が疑われ、均一でない「国民」とさらにその枠組みからこぼれる人々の「記憶」を語りの中に組み込むことが問われた。原爆投下当時広島の女学生だった著者が原爆で死亡した全ての旧友の関係者を訪ねた『広島第二県女二年西組』で著者は安易に「われわれ」として靖国に合祀されることに抵抗を覚え、沖縄戦で住民が逃げ込んだ2つのガマで集団自決と投降という対照的な結果となったことを描く『南風の吹く日』では「被害者」としてひとくくりにされる沖縄県民のさまざまな位相を明らかにした。

 

【感想】

 沖縄の2つのガマのエピソードが強烈。「チビチリガマ」に逃げ込んだ沖縄県民の中には元日本兵と中国戦線に加わった従軍看護婦がおり、その「加害者」としての体験から「軍人は残虐な殺し方をする」と住民に話し、結果住民たちは自決する。対照的に「シムクガマ」ではハワイ移民の体験者が「アメリカ兵は手向かいしなければ殺されない」と住民たちに語り米軍と交渉したがために、住民は投降し命が救われた。「語り」の主体となる者の立場、経験、によって全く異なる結果となったことにとてつもない衝撃を覚えた。「チビチリガマ」の元日本兵たちが嘘を吹き込んだわけではないだろう。真実を語っても、それが「それぞれの」真実である、ということの重さを痛感する。