読断片日記

仕事柄、1冊丸ごとより断片をよく読むので、その中で印象に残ったもののメモ代わり。

【読断片】和田秀樹『この国の息苦しさの正体』

【断片の要約】

 白黒はっきりつけたがるという二元論的思考には注意が必要だ。中間ゾーンがないため一度敵/味方に分けてしまうと感情的な反応が起こり、判断がゆがめられがちになる。味方に対しても「自分に賛成してくれるだろう」と決めつけて話をしたら反論されて「裏切り者」へとレッテルの貼り替えが起こる。確かに毎度毎度判断するよりは属人的思考に則って「一緒くた」に判断する方が楽だが、それでは人間関係は狭まっていく。グレーゾーン=曖昧さ耐性を持つことが重要だ。

 

 

【感想】

以前の香山リカの読断片と通じるところがある。前回は「わかってもらえるはず」だったものが今回は「賛成してくれるはず」あるいは「間違っているはず」という「属人的思考による思い込み」である点だ。この手の評論が多いということは皆、問題であるとわかっているのではないかと思うのだが、なぜ気がつかないのだろう?

【読断片】香山リカ『14歳の心理学』

【断片の要約】

「コミュニケーションがうまくとれない」と悩む人は相変わらず多いが、最近は最も身近な人とのコミュニケーションに悩むケース、およびコミュニケーションの努力を放棄しておきながら「わかってもらえるはず」と期待して失望する、ネット上のコミュニケーションに多いケースが目立つ。別の問題に見えるこの2つのケースだが根底は同じで、「努力しなくてもわかり合えるはず」という楽観視と、「他者も自分と同じことを考えているはず」という前提がある。他者の思考について考えることをやめる思考停止は、時として自分にも向かい「自己のあけわたし」となる。「他人は自分とは違う存在」というシンプルな事実を再確認し、「この人とコミュニケーションをとりたい」という素朴で強い要求を持つことが重要だ。

 

【感想】

最近同じようなことを考えていたので驚いた。「わかってもらえるはず」って何を根拠に? と思ったが、ネット上で同じような考えの人たちがフォローし合う環境にも一端があるかもしれない。「フォロワー、フォロイーなのだから」という薄いこと極まりない属人的思考で「わかってもらえるはず」「自分と同じことを考えているはず」と「思考停止」に陥るのかもしれない。例えば政治について同じような考えだからフォローしたのであっても、別の問題に対しては別の考えを持っているかもしれない、そういうことに考えが及ばない思考停止は誠に恐ろしい。

【読断片】成田龍一『〈歴史〉はいかに語られるか 1930年代「国民の物語」批判』

【断片の要約】

 「戦争」の語りは、「報告」から戦後「体験」となり、共有性が薄れるにつれ「証言」として語られるようになった。「証言」では異なった立場からの、時には「加害者」としての語りも登場した。一方歴史学視点では支配者の対極としての「国民」が一元的に描かれていた。しかし1990年前後、「われわれ」=「国民」の自明性が疑われ、均一でない「国民」とさらにその枠組みからこぼれる人々の「記憶」を語りの中に組み込むことが問われた。原爆投下当時広島の女学生だった著者が原爆で死亡した全ての旧友の関係者を訪ねた『広島第二県女二年西組』で著者は安易に「われわれ」として靖国に合祀されることに抵抗を覚え、沖縄戦で住民が逃げ込んだ2つのガマで集団自決と投降という対照的な結果となったことを描く『南風の吹く日』では「被害者」としてひとくくりにされる沖縄県民のさまざまな位相を明らかにした。

 

【感想】

 沖縄の2つのガマのエピソードが強烈。「チビチリガマ」に逃げ込んだ沖縄県民の中には元日本兵と中国戦線に加わった従軍看護婦がおり、その「加害者」としての体験から「軍人は残虐な殺し方をする」と住民に話し、結果住民たちは自決する。対照的に「シムクガマ」ではハワイ移民の体験者が「アメリカ兵は手向かいしなければ殺されない」と住民たちに語り米軍と交渉したがために、住民は投降し命が救われた。「語り」の主体となる者の立場、経験、によって全く異なる結果となったことにとてつもない衝撃を覚えた。「チビチリガマ」の元日本兵たちが嘘を吹き込んだわけではないだろう。真実を語っても、それが「それぞれの」真実である、ということの重さを痛感する。

【読断片】弓削尚子『啓蒙の世紀と文明観』

【断片の要約】

 哲学者カントが人類学・人間学(アンソロポロジー)の講義を続け「人種」という概念の定義を確立させた一人であることからもわかるように、18世紀は「人種」を「科学的」に解明しようとした時代であった。だがそこには優劣の観念が持ち込まれ、白人ヨーロッパの優越性を示す根拠として利用され、奴隷制度や植民地政策の正当化に利用されることとなった。また解剖学の発達などによって「人種」と同様に「性差」も相対的なものから絶対的なものへと認識を変容させていき、女性の骨盤を広く頭蓋骨を小さく描く、女性の身体的特徴に関して「小さい」「弱い」などの形容を多用する、などによって男女の性格のステレオタイプ化を進めた。ここでも「科学」が白人ヨーロッパ男性の優越性を示すために用いられ、女性や他の民族を「他者」として自由や平等の枠組みからはじき出す論拠として提供された。

 

【感想】

 人種差別やフェミニズムというコンテンポラリーな問題を、歴史をさかのぼることによって相対化する非常に重要な試みだが、実はこの本の発行は2004年だという。
 今、当たり前とされていること(女性と男性は違う、など)を疑い、その「当たり前』が生まれた経緯をたどることは正しく世界を理解することにつながると思うが、それが「科学的」根拠だった場合、当時の科学が正しいのかどうかというところから疑わねばならないのだと痛感。

【一冊読んでみたい度】

★★★★★ (即買いした)

 

【読断片】川崎賢子「成熟した読者のための吉屋信子」(吉屋信子『鬼火・底のぬけた柄杓』解説)

【断片の要約】

 読者自身が文芸上の既成観念から解放されないと、吉屋信子は理解できない。吉屋信子少女小説の中心読者層であった女学生たちは、異性愛性役割セクシュアリティの規範という現実に閉じ込められていたが、吉屋の小説はそれらの規範への強い違和感がおそらく無意識のうちに内包されていた。吉屋信子の仕事は既成の近代文学の枠組みを逸脱しており、小説というジャンルにも拘泥せず情熱的に俳句に関わったのもそのあらわれである。結果、硬直した俳句会とは相容れない強烈な個性の俳人たちを掘り起こした。

 

【感想】

 無学にして吉屋信子少女小説家としてしか知らず、少女小説自体も蝶よ花よと育てられた「お嬢様の夢」世界と思い込んでいた。猛省します。そして吉屋信子読みます。

 フェミニズムが今、再興の兆しを見せているように思うが、「少女雑誌を媒体として展開する幻想のネットワーク」とあるのは今のBLや同人活動に通じるものがある。そこに流れるのは「異性愛性役割セクシュアリティとにたいする、強い違和の意識」であることは吉屋信子の時代も今も変わらない。ということは、そこから何も進歩していないということでもあるのだ。

 

【一冊読んでみたい度】

★★★★★

 

 

【読断片】渡辺政隆『一粒の柿の種―科学と文化を語る』

 
編集

【断片の要約】

  科学について語る場合、従来は専門家の話を一般人が拝聴するという一方通行的なものだった。だがそれでは科学に関心のある人にしか話が届かないし、一般人の話を科学の専門家が聞くこともない。その結果専門家は「素人は説明してもわからないし理解する気もない」と思い込み、素人の側は科学者は変人であるというイメージを強化するという悪循環を呼び、科学への関心を低下させてきた。そして科学技術への不信感は、反科学や偽科学の台頭を招きかねない。そこでサイエンスコミュニケーションという理念が登場し、各地の実情に合ったサイエンスカフェも生まれた。筆者の考える日本におけるサイエンスカフェの原点は「井戸端会議」である。

 

【感想】

 関心のある人だけが科学を学べばよいという態度がなぜいけないのか。その答えを我々は福島第一原発事故の際の「とろろ昆布売り切れ」や、現在進行中のコロナ禍における「消毒液を飲めばOK」「次亜塩素酸を噴霧」等で類推することができる。
 日本はまさに筆者が述べたような「悪循環」の典型事例だと思うが、日本ならではのさらなる悲劇は「専門家」を尊重せず、科学研究を「結果がすぐに出ないから」とおろそかにしてきたことである。それゆえ筆者の述べるようなサイエンスコミュニケーションを広めるどころか、研究資金の集めに奔走しなければならなくなった。科学への関心低下、不信が急速に進み、反ワクチンなどの「間違った自然派」が台頭しつつあるのはそのせいではないかと思う。

 科学だけの話ではないが、知りもしないのに知ったような気になって反対することが、一番危険である。

 

 

 

 

【読断片】湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』

【断片の要約】

 自分は大企業正社員の父、元小学教師の母を持ち、個室も与えられ塾にも私立エリート校にも行きたいと言えば行かせてもらえた。一浪の末東大に合格したが、それを恵まれた環境のおかげとは思わずすべて自分の努力の成果に帰していた。

 例えばうるさい弟妹が走り回る部屋で勉強しなければならない子は自分より高い集中力を必要としたろうし、浪人が許されない家の子もいただろう。自分の育った環境が「普通」であると思いがちである上に、自分自身は努力したという実感があるから、成功できない=努力が足りない、と自己責任論を振りかざす。だがそれは想像力の欠如だ。

 

【感想】

 個人的に筆者と同じ東大卒エリートの「恵まれたエリートならではの意見だが、本人はそのことに気がついていない状態」を目の当たりにした直後だったので、余計に筆者の自己客観視に拍手を送りたくなった。

 自己客観視は簡単なようで難しい。客観視の物差し自体が例えば「東大卒の中では」とか「高校の友人内では」とかいう非常にローカルで偏ったものである場合が多いからだ。受験をくぐり抜ける時点である程度均一化されていること、ましてや私立などは経済的にもふるいにかけられていることに気がついていない。筆者の言うように異なる環境にある他人への想像力が必要だ。

 ただし「異なる環境」に優劣をつけないという意識をもたないと、「貧乏育ちだから」と見下す、「恵まれた家のお坊ちゃんだからバカ」と別の偏見を持つ危険性もあるように思う。「違い」は「違い」でありそこに必ず優劣が存在するというものではない。

 

【1冊読んでみたい度】

★★★★☆